鉱夫とともに、銅山の行く末を背負う
仲持(なかもち)人形
仲持は、開坑(1691年(元禄4))から牛車運搬が主流となる明治10年代まで180年間以上にわたり、銅山産出の粗銅と山内所要の食料類などを背負い運搬した人々の呼称で最盛期には数百人が旧別子山中から立川中宿までを往復した。標準運搬量は男子が45キログラム、女子が30キログラムであった。
展示物の一部をご紹介します。
仲持は、開坑(1691年(元禄4))から牛車運搬が主流となる明治10年代まで180年間以上にわたり、銅山産出の粗銅と山内所要の食料類などを背負い運搬した人々の呼称で最盛期には数百人が旧別子山中から立川中宿までを往復した。標準運搬量は男子が45キログラム、女子が30キログラムであった。